黄金羊の観劇記

観劇・映画・読書の感想を好き勝手に書いてます。東宝・宝塚・劇団四季中心、海外ミュージカル(墺英米)贔屓、歴史好き。

ミュージカル「フランケンシュタイン」感想

2017年1月、初演大阪での柿澤加藤(以下かきかず)ペア回を見てドはまり。名古屋大楽まで追いかけました。
初演で他のペア(柿澤小西、中川加藤)も見たもののあまりしっくりこなかったので、再演ではかきかずペアに絞って観劇。DVDも出ることになったし、初演キャストでの再演はおそらくこれで最後だろうから気が済むまで通おうと、結局4回見ました。
東京では3週間ほど上演しているとはいえ、かきかずに限れば全部で8回しかないので本当は全通したいくらいの気持ちでしたが、20日昼と21日夜(スペシャル回)を連日観劇した時体力的にかなりキツかったし、他にもシャボン玉に行ったり、友人とIAFAの上映会をしたりしていたので、これくらいで限界でした。

1月の2週目末から3週目は文字通り日比谷に日参してた。東京メトロに1週間定期券があればいいのに。(24時間券をフル活用)

 

再演初回~3回目は、毎回違う印象でそれぞれ楽しかったものの、記憶の中にある初演大阪かきかず回の熱量と衝撃には届かず、
やはり3年前に見たあの熱演は公演期間終盤故のものだったのか、私の中での再演フランケンはこんな感じで終わるのか、名古屋や大阪まで追いかけた方がいいのか…?と、少し物足りなくも残念にも思っていました。

 

そして迎えた1月28日、東京公演かきかず楽。
運の悪いことに通院予定が入ってしまっていたのですが、朝イチで病院に行けばなんとか間に合うのではと、早起きして満員の通勤電車に潰されながら病院に駆け込み、通院後日比谷にダッシュ。なんとか間に合いました。最悪遅刻して入ろうと思っていたので大歓喜。無事に最初から見られました。

見られて良かった。本当に。

やりました。かきかずやってくれました。
見れました!!!!とうとう!!!!!初演大阪公演を超える、ずっと見たいと思っていた理想の、神舞台!!!!!
ありがとう世界!!!!ありがとうかきかず!!!!

私はこの舞台の記憶を棺桶まで持って行きたい、この舞台をまぶたに焼き付けたまま人生の終わりまで生きて灰になり塵になりたい。

全員名演だったけど、加藤和樹ってこんなに演技できるの!!!?!という程に加藤和樹の演技が良かった、熱かった、表現も分かりやすいし何より解釈、解釈が私と完全一致。私が見たいものを見せてくれた。
かっきーももちろん良かった、今まで見たかっきーの中で一番良かった、ありがとう…ありがとう…
フランケンのかきビクターとかずきアンリ怪物、私の中でレジェンドキャスト決定。公式に推されてないとか、このペアのDVDは出ないとか、ずっと嘆いていたこと、悲しかったことももうどうでも良くなった。
この日見せて貰った舞台が全てだ。私はもうこれでいい。そう思えた。
理想の名舞台を追い求める私の執着は成仏した。

 

という訳で、ブログにはこの日見た回、2019年1月28日の東京かきかず千秋楽の印象、この日私の目に見えた物語の話を残します。

 

この回が私にとって神舞台だったのは、役者さん達が全員名演&名歌唱を見せてくれたことに加えて、何より
「この脚本と設定とキャラクターで私が見たいと思う、一番自然でしっくりきて理想的だと思う物語と人物をそのまま見せて貰えた」
からです。
私だったら物語をこう見せる、この二人の関係はこうで、この台詞はこういう意味、という「解釈」が、自分の中のそれと、舞台上で表現されているものとで、全部綺麗に一致して見えた。

同じ演目を見ていても、聞こえる台詞が自分の中にストンと入ってきて意味を咀嚼できる度合いが日によって違うけど、この回ほどフランケンに登場する全ての人々の台詞、言葉が明瞭に聞こえて、理解しながら進行を見守れた日はなかった。

脚本上のすべての物事と人物の感情が淀みなく見事に繋がり、一本の太い筋が通った物語が出来ていた。
その物語は、友情と恋愛のすれ違いBL。
自分に100%純粋な友情を抱いている親友に片想いし、叶わぬ恋心を抱えて死んだ男の純愛と、その男の記憶を持った人造人間が生まれてから死ぬまでの悲哀を描く、二部構成の悲劇。

以下、パンフレットを参照しながら場面ごとに解説。


ワーテルロー

まず登場場面。かきビクターが出てきた時から黄金の太陽、金色で眩しいオーラをまとっていていきなり衝撃。不意打ちでビックリして頭の中が「!!!!????!!??」ってなった。
かきビクター、回によっては真っ黒太陽なんですよ。暗い雰囲気で闇をまとっていて、君夢でのアンリの「眩しい君は太陽さ」の台詞に「あの黒天が明るく見えてるの????目は大丈夫????」と彼の視力が心配になってしまう。
それがこの日は最初から明るかった!!!もうこの時点でいつもの公演とは違う、と確信。
私、かきビク登場時は毎回「うわっ可愛い子が出てきた!!むさく陰鬱な空間に突如現れたキューティーフェイス!!姫か!!?」と思っていたんですが、かきビクはこの日も可愛かった。戦場に咲いた一凛の花。それがこんな明るいオーラをまとって現れたらそんな!!!しかも自分より身分は上の大尉で、命まで助けてくれたらそんな!!!!そりゃ惹かれます!!!!!無理ない!!!!!という説得力!!!!!!

ちなみにこの日のディナーのデザートは「アルコールたっぷりキルシュトルテ、ぼっちゃん好きかも」でした。

 

♪ただ一つの未来

ビクターの明るさにただでさえ惹かれていたアンリ、この場面でビクターと議論を戦わせ、最初は色々異論もあったのに、その眩しい信念と純粋な魂に触れているうちにすっかりビクターに同調する。

「いやアンリ結構チョロいな?」と思う回もあったんですが、この日は「まあ仕方ないか~~~!!!柿澤ビクター歌うまいもん!!!こんな歌唱力で上からねじ伏せて来られたら屈服するよね~~~!!!」と思いました。
そしてこの後、酒場の場面あたりで振り返って「この時に恋に落ちてたのかな」と思いました。

 

♪平和の宣言

舞踏会の場面。捌ける時、それまでちゃきちゃき動いていたのに、袖に入った途端にビクターが項垂れてトボトボ歩いていた。衝撃。
ああ本当はエレンやジュリアと仲良くしたいのに、自分と一緒にいると危ない目に遭うから距離を置いてるんだなって思った。

皆の視線がある所では虚勢を張って嘘をつくけど、見えない所では肩を落として意気消沈している。
ビクターは姉さんをちゃんと大事に思ってるし、そしてジュリアも大事に思ってる。
でも女性だから遠ざける、好きな女性には弱味は見せず、距離を置いて一方的に守ろうとしてるんだな、と。
一方アンリは男友達。
男だから弱みを見せられる、頼れる、対等に付き合える。
初めて出来た同性同年代で自分と同レベルで話を出来る人、親友の存在が心から嬉しいし、頼れるから気安い。
柿ビクターのこの男性と女性に対する接し方の違い、よく聞く典型的な「彼女への態度」と「親友への態度」だった。
つまり柿ビクターからかずアンリへの感情は100%「男の友情」だと思った。

 

♪孤独な少年の物語

回想場面での、子役の小林くんも明るかった。光!!素直で健気で優しい良い子!!悪魔どころかむしろ天使!!!!純粋すぎる天使!!!ちょっと倫理観の幅が人より広かっただけ!!
子供と大人のビクターズがどっちも光!!!

別日に見た臣ビクターは登場人物イチ闇が深くてマッドがマックスで、臣ビクター→柿ビクターへの変化を見て「よくあの子供からここまで真人間に成長できたね…留学先での教育が良かったんだね…」という感情を抱いたこともあった。

それはそれで新しい物語で面白かったけど、やっぱりちょっと流れが苦しかった!!

それに比べるとこの日の小林ビクター→柿ビクターは光から光!!繋がりが自然!!単純明快で分かりやすい!!

 

♪一杯の酒に人生を込めて

この前の場面でのアンリのエレンへの接し方、そしてこの場面でのエレンやビクターに対するアンリの物腰と言葉の柔らかさ、優しさ、丁寧さ、溢れ出る優しさにだんだん「ん?????」と思い始める。
「僕には親がいない、だけど君がいるから十分さ」という台詞が、
「僕には大切な人間は世界に君しかいない」という意味に聞こえた。
あっ…このアンリ、ビクターにガチ恋してる…
ビクターはアンリを友人として好きだけど、アンリはビクターを恋愛感情的な意味で好きだ…
とこのあたりで思った。

ところで初演から思ってるけど、かっきー酔っ払いの演技上手ですよね!!!やはり本人が酒好きだとこういう場面で説得力がありますね!!!

 

♪殺人者

アンリはビクターに片思いしてたけど、告白するつもりは一生なかったし、あんな事件が起こらなければ、ずっとビクターの片腕、良い親友としてやっていくつもりだった。
ビクターはジュリアと両思いだし、自分の気持ちは隠して、きっといつか結婚する二人をずっと見守って行こうと思っていた節がある。
しかし葬儀屋をビクターが殺してしまうというアクシデントが起き、咄嗟に閃いた。

「今ならビクターの為に死ねる」と。

このまま報われない恋心を抱えて長い一生を生きるより、今ここで愛するビクターの為に死のうと思った。
自分がいなくなってもビクターはジュリアと幸せになるし、自分はビクターの為に死ねるし、ビクターに実験材料の首も渡せるし、全て丸く収まる!合理的!!皆が幸せになる道!!という閃き。
だからルンゲに言った。
「逃げろ、ビクター連れて。すべては僕がやったことにして」

 

♪僕はなぜ
初演では「ビクター葬儀屋殺してるのに本人の中で無かったことになってるのはどうやねん問題」あったのですが、

再演の柿澤ビクターは善悪の判断をちゃんと出来る情緒のまともな人間で、自分が殺人者であることを自覚しているように見えた。
曲最後の「一体どうなるアンリを死なせたら僕は殺人者」の部分、
「アンリを死なせたら」と「僕は殺人者」の間のタメが非常に長い。
「アンリを死なせたら(仮定)僕は殺人者(になってしまう)」ではなく、
「一体どうなる、アンリを死なせたら?(疑問)/…僕は、殺人者(事実)」に聞こえた。
自分は人殺しだとちゃんと分かっているから、その責任を負うために裁判所に赴いて自白した。非常に自然な流れ。
すぐに自白しなかったのはエレンの指摘通り、「このままアンリが罪を被ってくれれば、アンリの首で実験が出来る」と思ってしまっていたからで、でもそれはいけないことだありえないと、科学者としての好奇心や合理主義に人間としての良心と理性で打ち勝ち、最後に「僕は殺人者」としっかり事実と自分の罪とを見据え、受け止めることができた。

殺人を犯したという恐怖、庇ってくれる友人という誘惑。逡巡と葛藤の末に自分との戦いに勝利し、裁かれる為に自首してきたビクターの震える心。今にも切れてしまいそうな、張り詰められた糸のような極限の精神状態。
それを突き飛ばし、完膚なきまでに叩き潰したのが、監獄でのアンリの告白だった。

 

♪君の夢の中で

この曲はアンリの告白ソングでした。
アンリは本当は、ビクターへの恋心はずっと秘め続け、そのまま死のうと思っていた。
ところが、処刑直前にビクターが面会にやってきた。
目を閉じて、少し笑った。
千載一遇のまさかのチャンスが来た。
自分はもう死ぬから、ビクターを戸惑わせて、今後どういう風に接していけばいいのかと困らせることもない。友情が壊れることはない。
だからもういいだろう、我慢することもないだろうと、ビクターに伝えた。
「僕は君に恋をしていた」と。
憧れていたとか、そういう比喩ではない。文字通り恋をしていた。
「一緒に夢見れるなら死んでも僕は幸せ」は「君の為に死ねるなら僕は幸せ」だった。

突然アンリから恋を告白されたビクター、ただでさえ処刑前日でテンパっているのに、考えもしなかった告白と展開に完全にキャパオーバーで泣くしかできないし、言葉にならない。アンリの胸に縋り付いてひたすら号泣、嗚咽。

アンリは科学者としてのビクターを信仰・尊敬している狂信者や殉教者ではなかった。
負けん気が強くて生意気な年下の大尉、研究に一途な夢見る努力家、酒場でべろべろに酔っぱらって絡みながら泣き言を言ってくる親友、いつも一生懸命で不器用で、自分の前で全力で怒って笑って泣いて生きる、一人の人に恋焦がれた。
そして残されるビクターの気持ちより、自分の恋心にどう決着を付けるかを考えた、ある意味身勝手な男だった。
でもビクターにはジュリアがいるし、時間がたてば立ち直るだろう。予想外の告白に今は多少混乱しても、そんなこともそのうち忘れて、幸せに生きて行ってくれるだろう。
だから、最後の最後に告白するくらい許されるだろう。そう考えた。

アンリは死にたがっていた訳ではないけど、愛するビクターの為に今死ねるなら、それって最高だと思っていた。
理性も心もその案に賛成してるし、告げるつもりなかった気持ちまでビクターに告げられた。もう本当に思い残すことも人生への未練もない。だから曲の終盤からギロチンで首を落とされるまで、ずっと晴れやかな笑顔だった。スッキリとした気持ちで死んだ。
彼の物語は終わった。

 

ジュリアについて。
フランケンを初めて見た時は、正直「ジュリアって必要?」と思うこともあったけど、今回で「ジュリアは絶対必要」と府に落ちた。
ジュリアが良い子でビクターと両想いだから、アンリは二人を応援するし、ビクターに告白する気を起こさず、恋を諦め、ビクターに首を提供する為に死ねた。

ジュリアがいなかったら、アンリはあの場で死ななかったかもしれない。告白したら両想いになれるとまでは思わなかったとしても、確固たるパートナーがいないビクターを一人残して死ぬのは不安で、ビクターの手を引いて海外逃亡とかそういう道を選んだかもしれない。

新鮮な首が手に入りません!!施設もないので研究はしばらくストップです!!!フランケンシュタイン、完!!!!
と、なってしまっていたかもしれない。新たな生命を誕生させないまま終わってしまう。
ジュリアは物語を既定の方向に進めるために絶対に必要な要素だった。舞台上の全ての要素が必要で、不可欠で、絡まりあい効果的に働いていく。そういう舞台は見ていて本当に気持ちがいい。

 

さて、そしてここから、原作に沿った怪物の物語が始まった。
加藤和樹、韓国版は観劇してたけど、原作読んでるよね?ナショナルシアター版も見てるよね??
私は韓国が制作したフランケンシュタインの二次創作ミュージカルを見に来たんだと思ったら、再演では原作に忠実な舞台になっていた…何!!??
いや、あの内容(脚本)で原作に忠実に見えるって!!!何!!!???と冷静に思うけど、それくらい和樹怪物には原作みがあった。
ありがとうありがとうありがとう加藤和樹…!!原作怪物大好きマンの私大歓喜!!

 

♪偉大なる生命創造の歴史が始まる~♪また再び

せっかく踏みとどまっていたのに、君夢でアンリの告白に叩き潰され、人の道の最後の一歩を見事に踏み外させられてあっち側に行っちゃったビクター。
あれくらい壊れないとやはり神には挑めないんだな、という説得力。アンリの首を抱いて現れた時から、完全にプッツン切れてた。鬼気迫る歌唱と演技。
ただ、ビクターが発狂していたのは生命創造〜怪物誕生直後だけで、ルンゲ死亡後、暴走している怪物を見ている間に、だんだんと夢から醒め、理性が戻ってきたように見えた。

生まれたての怪物は赤ちゃんだった。ビクターがやったことを真似しているだけ。
後ろから抱きしめてくれたから、自分も後ろから抱きしめただけ。
誤算は本人が意図せぬ怪力を持ってしまっていたことで、それでビクターの首が締まってしまったのが悲劇だった。
ルンゲに噛み付いたのは、小さい子がなんでも口に入れてしまう、口に入れることで対象を認識しよう、世界を把握しようとしているだけの行為。
噛み付いたのがたまたま首で、またしても意図せぬ怪力だった為に、噛みちぎって殺してしまった。更なる悲劇。
(カトリーヌと会った時に同じことをやっている。本に噛み付いているし、腕を拭ってきた相手の腕を拭う)
和樹怪物、ルンゲに噛み付いた後、後ろを向いてゲーッて吐いてた。間違えて不味いものを口にしちゃった、みたいな。その後落ちていた鎖に気付いてガシャガシャ動かして遊んでいた。赤ちゃん…。

 

<闘技場>

露崎エヴァとてもいいですね!!歌もいいし蓮っ葉な感じが可愛いよ!!
柿澤ジャックもいいですね!最初はエグくて苦手だったけど、4回目にはもう慣れてたよ!!
鈴木イゴール、動きが可愛くて好きですよ!!動きが滑らかで、身体能力がすごい!
音月カトリーヌのソロかっこいいね!迫力あっていいね!!

フェルナンドとチューバヤの関係にこの回で初めて興味が湧いた。
もしかして結構良好??良い主従だった???
フェルナンドが殺された時、チューバヤ目を見開いて、手を伸ばして駆け寄ろうとした。ところを、後ろからイゴールに刺されて殺されてしまった。可哀想だった。
この二人にもきっと物語があるんだな…。

 

♪俺は怪物

怪物くん、あの流れなら一番に憎むのはジャックとエヴァなのが普通だよね?なぜ真っ先に創造主に意識がいく?そして他を思い浮かべない?憎しみの全てが創造主に行くの???というのが初演では疑問だったんですが、だいたい謎が解けました。
つまり彼にとっては闘技場で物理的に痛めつけられたことは大した問題ではなかった。
問題だったのは孤独、一人ぼっちで誰にも存在を理解も愛しても貰えない、という絶望が一番辛かった。
自分を理解してくれる相手は作り主の創造主しかいないから、言葉を流暢に喋れるようになった途端彼のことを口にした。
口にしなかっただけで、闘技場にいる間、今までもずっと怪物は心の中で創造主に対して色々なことを思って、語りかけていたのかもしれない。

怪物にはアンリの記憶はない。人格も違う。
怪物はアンリとは別の存在。アンリはあくまで首(パーツ)の提供人(ドナー)というだけ。
新しく生まれた生命としての怪物は、ずっと親としての創造主を求めていた。
この曲で怪物は激しく創造主への憎悪、呪いを吐き続けた。
しかし最後に一瞬創造主への求愛というか、自分の孤独を彼に癒して欲しい願望、求愛のようなものが現れた。驚愕。曲中での怪物から創造主への気持ちが、憎憎憎憎憎、から最後に反転して突然の愛。
こ…これはまさしく愛憎の話!!アンリとビクターだと単なる愛の話だけど、怪物と創造主の話は愛憎入り混じる話…!!げ、原作ーーーーー!!!!!!ブオーーブオーーー!!!!(螺貝)

怪物、「昨日見た夢 誰かに 抱きしめられてた」 という歌詞を、生まれた直後にビクターに抱きしめられ、その後自分もビクターを抱きしめた、その時のポーズで歌ってた。
怪物が見た夢はビクターの夢、生まれた後にたった一度だけビクターが抱きしめてくれた、まだ自分のことを怪物扱いせず、アンリと呼んで服を着せて抱きしめてくれた、一瞬だけの優しいビクターの記憶だった。

「夢の続きを生きてみたい」は、「自分が創造主に愛される世界で生きてみたい」「もう一度、自分をあんな風に抱きしめて欲しい。愛して欲しい」に聞こえた。

怪物は自分を抱きしめてくれてたのが誰だったのかは覚えてないのかもしれない。
前半では「聞け創造主」って名指しで語りかけてるのに、ここでは「誰かに」抱きしめられてたって言ってるし。
ただ、この曲で怪物の意識は最初から最後まで創造主に向いているし、とにかく夢の中で「誰かに愛される」体験をして、現実でも誰かに愛して欲しいと思った時に、怪物が思い浮かべたのは創造主だったと思う。

初演ではここ、怪物はアンリ時代の記憶をぼんやり受信したのかと思ってたんですよね。
「誰かに抱きしめられてた」では、アンリがビクターに抱きしめられる夢を怪物が見たのかと思った。「夢の続きを生きてみたい」は、「君の夢の中で生きよう」と言って死んだアンリの台詞と対応してるのかなと。
「君の夢の中で生きよう」と言いつつ、アンリは人生に未練があり、もっと生きたいと思っていた。その続きの人生を怪物は生きている、生きようとしている…と解釈していた。
でも今回はこの時点ではまだ怪物にアンリは混ざっていないように見えたので、アンリを内包している怪物が無意識に似たような言葉を使ったと解釈。

初演ではもっと「怪物=アンリ」の印象が強かったけど、再演の加藤アンリはアンリと怪物を完全に別の存在として演じ分けていた(ような気がする)ので、二部構成の印象が強まった。アンリと怪物、それぞれの物語のテーマと輪郭がはっきりして、分かりやすくなった。「アンリと怪物は同一人物」として、揺らぐ物語を解釈していくより、二人は完全に別の存在として見せてくれた今回の物語の方が私は好きだった。

正直、韓国版ミュージカルの一番のウリは「怪物の元になった首にはビクターの親友の首が使われていた」という点で、だからこそ怪物にアンリをどれだけ混ぜるかが物語の見せ方になると初演では思っていたし、役者さん達も初演ではそう考えていた気がする。
でも再演では「♪俺は怪物」から「♪ジュリアの死」まで、怪物にアンリの影がほぼ見えなくなったおかげで、一幕終盤~二幕の内容が原作小説「フランケンシュタイン」に近くなった。そしてよく考えたら(考えなくても)ミュージカルもその部分は、闘技場以外の流れはだいたい原作通り。「♪俺は怪物」の歌詞なんて、ほぼ原作にある怪物の台詞。
今まで怪物にアンリが混ざった状態で見た二幕は、退屈さを感じた。アンリとビクターの物語に挿入された大きな蛇足に見えた。怪物はいつアンリの記憶を取り戻すんだろう、アンリとビクターは最終的にどうなるんだろう、とそんなことを考えていた。
一方舞台上からアンリが消えた状態で見ると、この部分も断然楽しく感じた。もともと原作の怪物のキャラクターは素晴らしいんだから、原作に寄せて二幕を演じれば面白くなるのは当然だった。怪物の存在と人格にきっちり焦点が当たって、彼の精神状態や成長、苦悩を見守ることが楽しかった。

私は韓国が制作したフランケンシュタインの二次創作ミュージカルを見に来たんだと思ったら、再演では原作に忠実な舞台になっていた…。闘技場の場面とかあっても全体としてはそう見えるほど、和樹怪物は原作怪物をそのまま表現していた。原作大好きなので嬉しくて嬉しくて見ていて躍り上がりそうだった。ありがとう加藤和樹

 

♪その日に私が

この日はエレンとビクターの関係も良かった。
再演3回目までは、普通人の露崎エレンは狂人ビクターを理解できないのだろうと思っていたけど、今回はエレンはちゃんと弟の夢を理解し、応援しているように見えた。
別れの場面でビクターに「魔法のような夢見れるひと」と語りかけるエレンの言葉に真実味があった。泣きじゃくるかきビクターの左頬の涙を拭い、次に右頬の涙も拭ってあげるエレンの仕草は、可愛い弟への愛情と、こんな子を置いて行かねばならないことの寂しさ溢れていた。
弟にあんなにも泣いて自分に縋って「行かないで」と訴えられたら、そりゃあエレンも後ろ髪引かれちゃうよなあ…柿澤加藤の本物ぶりが周りの感情や関係もどんどん本物にして、名演好演を引き出していた。舞台上であんなにも何度も何度も本気号泣できるのがすごいよかきビクター。

エレンとビクターがすれ違ったのは、ビクターが葬儀屋を殺したことを隠している時に自首を促す時くらいに見えた。その他の場面では、二人はお互い思い合い、大事にしあってる良い姉弟だった。

 

♪絶望

エレン蘇生の試みあたりで、ビクターは「生命を創造する」と言いながら、やっていたことも目指していたことも最初から最後まで「死者蘇生」だったよな、と気づく。
更にビクター自身がその違いを認識していない。大問題。
違う!!!!ビクタアアアアアそこは違うよーーー!!!!その違いは結構大きいよーーー!!!??気づこう!!??
怪物が生まれたことは、「生命創造」としては成功だったけど、ビクターがやりたかったのは「アンリの復活」という「死者蘇生」だったから、「失敗作」と認識してしまったんじゃないか?
新しい生命を作り出す、という意識をしっかり持っていたら、そもそも最初怪物に「アンリ」と呼びかけてはいないのでは?
ビクターはアンリを蘇らせたい一心で、怪物という新しい生命の存在に気づいていないし、その人格にちっとも向き合っていない。向き合うという発想がそもそも北極までない。
怪物がビクターの研究室を壊したのも、エレンの蘇生を阻んだのも、表面上の理由は「ビクターを孤独に追い込んで苦しめる為」だろうけど、心の奥深くでは「ビクターがやりたかったのは死者(アンリ)の蘇生で、新生命(自分)の創造ではなかった」「つまり自分は求められ、必要とされて生まれてきた存在ではなかった」「と悲しく思う気持ちもあったんじゃないかなあ。

 

♪傷

怪物にはアンリの記憶はなかったけど、この場面の直前で情報として脳で再生できるようになったのかな、と思った。
「俺のと、…ともだち」と、口にする時一瞬詰まっていたのが興味深かった。
創造主でなく友達と言ったのは記憶が戻ったからだと思う。
それまでビクターへの愛憎に駆り立てられて残酷な殺人を続けていた怪物が、この場面で急に大人しくなり、空を見つめながら遠い目で静かに穏やかにビクターについて語るようになったのも、アンリの記憶を手に入れその感情を咀嚼したことで、怪物の内面が子供から大人へと変化したからだと思った。
ただ、記憶が戻ってもあくまでアンリではない。アンリは怪物にとっては「前世」のような位置づけと考えるのがしっくりくる。あくまで今の自分の魂とは別の存在。
ただアンリの記憶と一緒に、アンリの恋心まで怪物の中に蘇ってしまった。
だから怪物は、自分は「どう恋をして、どう死ねばいい?」と語る。ビクターに恋をして、その恋故に死んだアンリ。彼の気持ちを自分の中に抱えながら、遠い目で歌う。アンリの記憶がないとこの言葉が出てくるはずがない。
自分自身のビクターへの憎悪と執着、報われない愛、更にアンリの記憶が伝えてくるビクターへの恋慕を抱えて、どうしたらいいのか、自分がどうしたいのか怪物は分からなくなってしまった。迷子になってしまった。「俺も迷子になってしまったんだ。」

 

北極~♪俺はフランケンシュタイン

思考も感情もこんがらがった状態で、ビクターと北極で殺し合い。足を狙って切ったのはビクターを動けなくする為。もうどこにも行かせない為。死後も自分の側にいてもらう為。
「これでお前も一人になる。ビクター、これが俺の復讐だ」という台詞を言ったのは怪物。
初演ではこの時にはアンリの意識が表に出ていて、アンリが言ったのかと思うこともあったけど、今回はそうは思わない。アンリはビクターに復讐することなんて何もない。
自分をこの世に生み出して愛してもくれず、一人ぼっちの孤独を味わせた創造主への、怪物の復讐。
でも怪物はアンリの恋心も抱えてたから、それも踏まえて足を切った。
親である創造主に愛して欲しかった子供としての怪物と、ビクターに叶わぬ恋をしていたアンリと、二人の希望が一致した。
怪物はアンリに同情して、恋を叶えてあげようと思う気持ちも少しだけあったかもしれない。
つまりラストは、怪物(&アンリ)によるビクターとの北極無理心中エンドでした。アンリ&怪物にとってはトゥルーエンドと言えるかもしれない。二人とも全力で生きて、出来ることをやり尽くして、心残りなく晴れ晴れと死んだ。怪物も死に顔は笑顔だった。

あくまで一個人の勝手な解釈ですが、私にとってこの日の舞台はそんな物語でした。
フランケンシュタインの脚本と作中の所与のキャラクターで、ここまで好みかつ理想的な解釈&それを表現する名演技名歌唱を見られることはもうないと思った。
加藤和樹の「君の夢の中で」が耳からずっと離れない。
この舞台はおそらく今後私の中で語り継がれる伝説の舞台にもなると思う。
なので、私はここで「フランケンシュタイン」についての心の小箱の蓋を閉じまようと思います。

 

ありがとう再演フランケンシュタイン。最高の舞台でした!!!!! 

 

 ↓私が愛読している新訳版フランケンシュタイン。めっちゃ読みやすいです。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:シェリー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

 

 ↓フランケンシュタイン原作をより深く楽しみたい人に。

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
 

 

 ↓原作者メアリ―・シェリーの生涯を描いた映画。

メアリーの総て [Blu-ray]

メアリーの総て [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ギャガ
  • 発売日: 2020/03/03
  • メディア: Blu-ray